トヨタコネクティッド20周年企画連載 虹を架ける仲間達

第1章

3.経営危機からの脱却

業務改善支援室時代からの活動をよく知る投資家であり経営コンサルタントの成毛眞(なるけ まこと)氏は2000年4月のトヨタの社内報のインタビューで業務改善支援室の強みについて、「拙速」「貧乏」「ベンチャー精神」という3つのキーワードをあげて説明している。
「彼らはすぐやる。下手でもいいからまずやってみる」。つまり「拙速」である。「インターネットのビジネスにおいては拙速こそが命」と同氏は語る。
また、「彼らは貧乏だったことが良かった。最初から大きな予算と人を与えられていたら、苦労はなかったかもしれないが、成功もなかった。人数が少ないとスタッフは何でも自分たちでやらないといけない。だから必然的にノウハウがたまる。人数が少ないから情報の共有化が進む。本人たちが自覚していないうちに蓄積されていく組織のノウハウ(暗黙知)が増えていく。昔の人は、麦は踏まれて大きくなるといいました。まさしく、彼らは苦労を重ねて成長していった。そして、それを支えていたものこそベンチャー精神です」と続ける。
成毛氏が見抜いた業務改善室、GAZOO事業部とつながる「拙速」「貧乏」「ベンチャー精神」のDNAはGMSにも引き継がれていた。受注予定が半分以下になる経営危機。彼らはこの難局を見事に乗り切ったのであった。

ピンチになれば知恵が出る

「このままではGMSの経営の存続が危うい」。そんな危機感は会社設立から3ヶ月が経った2001年の1月からあった。コンビニF社での試験導入がスタートしてすぐにトラブルが続発。日々、その対応に追われる中、「このままでは正式導入まで時間がかかるかもしれない」「ひょっとしたら、キャンセルだってありえる」と考えるのは経営者なら当然である。
GMSはe-Towerのコンビニへの展開がきっかけで誕生した会社であったが、設立の真の狙いは「お客様接点の拡大」であり、もっといえば「トヨタの社内でできないことを新会社でやる」ことだった。このままe-Towerと心中するわけにはいかない。
まず必要なことはキャッシュフローの改善である。2001年3月期の1年目の決算はフィージビリティスタディの段階で赤字になることは折り込み済みだった。問題は2年目の決算。予定ではコンビニ各社にe-Tower導入が進み、単年度黒字に転換する計画だった。この導入の計画に狂いが出る可能性が予見されたのだ。
当時、GMSには、e-Towerの他に、トヨタ販売店向けのGAZOO端末とITボードと呼ばれた屋外設置の大型デジタルサイネージの商品があった。GAZOO端末はすでに全国のトヨタ店に展開されていたため、新規開拓の余地は少ない。すぐに端末の代替需要も見込みにくい。ITボードはアムラックスやカラフルタウン岐阜、名古屋トヨペットへの大型案件の納品は完了していた。高額な商品なためこれもまた新規開拓には時間がかかる。
この時、GMSは、とにかくコンビニに正式導入されるまでの期間のキャッシュフロー、日銭を稼がなくてはいけなかった。そこでいち早く取り組んだのが、トヨタおよびトヨタグループ各社からのホームページ制作と運用の受託であった。トヨタグローバルサイト(公式サイト)や販売サイト「toyota.jp」、トヨタ販売店に展開しているPiPitのサイト、トヨタレンタカーの「トヨタレンタ楽ティブ」など積極的に受注を増やしていった。こうした取り組みは着実に成果をあげ、GMSにキャッシュフローをもたらした。しかし、それだけではまだ足りなかった。

ITボード
2002年5月の連休中にトヨタ元町工場に納品されたITボード。豊田合成のLEDを新たに採用し、GMSの提案で衛星アンテナと衛星ルーターを使って動画を配信することで、複雑だった他社製大型表示ボードのシステム簡素化を実現。コストを下げながら、従来品より高解像度のボードの開発に成功した。

救世主Mu-Boxの開発

もう一度、思い出していただきたい。GMSのすべての事業計画はe-Towerの1万3000台の受注をベースに組み立てられていた。それは端末の販売売上だけではない。その後の保守、メンテナンスの売上にもすべて1万3000台の台数目標は関わってくる。何よりも月々の衛星通信費が一番大きな影響が出る。前述の通り、GMSは1万3000台受注を見込んで、大きな帯域を契約していた。2001年1月段階で稼働しているe-Towerはわずかに50台。台数が少ないからといって、通信費が安くなるわけではない。この余った帯域を早々に何かで埋めないと、早晩、破綻することは見えていた。
「e-Tower以外で、衛星通信を使うビジネスを開拓しろ」と言う友山の指示に、GMS開発陣が答えたのが「Mu-Box」である。GMSは新しいビジネスチャンスをトヨタの社内に見つけたのだ。
それまでトヨタでは新車のプロモーション動画や広報資料、さらにはスタッフ教育用のビデオ、HDDナビ用の更新地図データなどを書面やビデオ、CD-ROMの形で、全国6500拠点の販売店に配布していた。この極めてアナログなやり方に代えて、衛星通信を使い、一斉に全国6500拠点の店舗に配信するシステム。それが「Mu-Box」である。
これにより、トヨタの経費は大幅に低減される。販売店にとってもいままでバラバラに届いていたものが一元化されるだけでなく、必要な時に必要な人がオンデマンドでそれを視聴し、利活用できる。そして、GMSにとっては、契約していた通信回線の帯域がこれで埋まる。まさに、三方良し。画期的な提案だった。
よくぞこんなプランを思いついたものである。まさに、ピンチが産んだ新ビジネス。「窮鼠猫を噛む」ではないが、ギリギリまで追い詰められたからこそ出てきたアイディアだった。
この「Mu-Box」のプランをトヨタ自動車に提案したところ、高く評価され、全販売店舗への採用が決定した。GMSはMu-Boxの専用端末を開発し、衛星通信用のルーターとセットでこの衛星配信システムを販売することにした。

リースバック方式で切り抜ける

しかし、このプランが採用されるには一つだけ大きな問題があった。それはこのMu-Boxの専用端末と衛星ルーターをどこが所有するか?ということである。トヨタは「使用料を負担するのは問題ないが、トヨタの資産になる端末を社外の販売店に設置することはできない。端末は所有できない」という。それはもっともな話である。かといって、販売店に端末を所有してもらうとなると「なんでそんな端末を購入する必要があるのか?」と販売店の足並みが揃わない。導入までに時間がかかって、その間にGMSの資金がショートする。ましてや、GMSが6500台の端末を所有してトヨタに貸し出すなんていうのは論外。そんな資金はどこにもない。せっかくの画期的なアイディアがこれで八方塞がりになり、止まってしまった。
しかし、GMSは諦めなかった。というより、諦めるわけにはいかなかった。そこで再び、散々知恵を絞って導き出した妙案がリースバック方式の採用だ。リースバックというのは、最近になって不動産業界で注目されている新しい仕組みである。自宅などの所有不動産を第三者(投資家や不動産会社など)にいったん売却し、その後、売却先と賃貸借契約を結んで、元の所有者がそのまま住み続ける。「所有から利用へ」という時流の中で台頭している新しいスタイルである。もちろん、2000年にはリースバック方式なんて一般にはほとんど知られていなかった。また、不動産以外の分野で活用された前例もなかったはずである。
こんな裏技のようなやり方を業務部の豪腕・上田がどこでどう探してきたのかは定かではない。しかし、上田はこれをトヨタファイナンス株式会社に掛け合って、見事に実現してしまった。
つまり、Mu-Box端末と衛星ルーターをGMSは一旦、トヨタファイナンスに売却し、その販売代金を受け取る。そして、その端末をリースとしてトヨタファイナンスから借り受け、それをさらにトヨタに再リースしたのである。手元には端末の販売代金がまとめて入ってくるのでキャッシュフローは改善する。そして、月々の端末リース料とMu-Boxの利用料がトヨタから入ってくるので、トヨタファイナンスにリース代金を支払ってもお釣りがくる。それを衛星通信の通信費に当てることができる。何とも見事な解決策であった。

わずか4ヶ月で6500拠点に導入完了

さらに、短期間で効率よくMu-Box端末と衛星ルーターを全国の店舗に導入するために関東自動車工業株式会社(現在のトヨタ自動車東日本株式会社)に協力してもらい、横須賀の工場に専用の製造ラインを作った。そこで必要なソフトのインストールや初期設定をして、到着すればすぐに使える状態にしてMu-Box端末と衛星ルーターを販売店に出荷した。
全国6500拠点の店舗をいちいち訪問して設置していては、人手もかかるし時間がかかる。しかし、この方法なら、宅配便で端末とルーターを送付すれば完了する。その結果、2001年4月の導入開始からわずか4ヶ月で6500店舗すべてに納入を完了してしまったのだ。びっくりである。
Mu-Boxの6500拠点への導入はe-Towerを6500台販売したのと同じ結果を生む。いや、値引きがめちゃくちゃ厳しかったe-Towerに比べれば、その何倍もの利益をもたらした。こうして、GMSは事業計画に近い売上と利益、キャッシュフローを得ることができ、GMSの経営危機は回避されたのである。2期目は計画通り黒字となった。
こんな予定外の新規事業をわずか数ヶ月で企画・開発し、半年あまりで納品まで完了してキャッシュを回収した。まさに、成毛氏が指摘した「拙速・貧乏・ベンチャー精神」を地でいくエピソードとなった。
「あの時は金になることは何でもやった。死ぬなよ!と豊田に言われた一言が頭から離れなかった。あの一言がなければ諦めていたかもしれない」。と友山は後述している。

Mu-Boxのシステム画面
Mu-Boxの製造ライン
Mu-Boxの衛星通信用ルーター

左からMu-Boxのトップ画面。関東自動車工業に設置したMu-Box専用端末の製造ライン。衛星通信用ルーター。ちなみに現在はクラウドと高速通信ネットワークに置き換わった。

コンペで大手代理店と一騎打ち

Mu-Box同様、この経営危機の中でビジネスの芽が生まれたWEBの制作・運用事業もその後、大きく成長した。この事業の成長に拍車をかけたのが、インパクでの内閣総理大臣賞の受賞である。それは辛く苦しい創業期にあって、GMSに元気と自信を与えた明るい話題であった。
インパクとはインターネット博覧会の略。小渕・森内閣で経済企画庁長官だった堺屋太一氏の発案で「楽網楽座」をキャッチコピーに日本国政府のミレニアム記念事業の一環として、また経済振興策として、2000年の大晦日から翌年の12月末までの1年間、インターネットで開催された政府主催のイベントである。国内の大手企業や自治体、さらには一般参加の507のパビリオンが参加し、トップページのアクセスは5億3300万回を記録した。
各パビリオンは当時としては最新のインタラクティブなコンテンツを実現するFlashを使用、たくさんの画像や動画によるコンテンツを作成。これにより、日本のブロードバンド回線普及を後押しした。日本におけるネットビジネスおよびブロードバンド時代の幕開けを告げるイベントだった。
当時、トヨタのトップは奥田社長であり、奥田はそのイベントの幹事だった。それゆえ、トヨタとしても気合の入った一大イベントだった。豊田は、これこそGAZOOドットコムで培ってきたノウハウを開花させる絶好の機会と、友山にその企画書の作成を指示した。ところが、トヨタ社内の担当部署は宣伝部であり、トヨタが出展するトヨタパビリオン・ドットコムの企画・制作・運営は、宣伝部とつながりのある大手代理店が請け負うことが暗黙の了解となっていた。
バーチャルイベントとはいえ数億円規模の大きなプロジェクトでありコンペは当然のことなのだが、当時の宣伝部は傲慢だった。「GAZOOごときに、出来るわけがない・・」とでも言いたげな宣伝部長の態度に豊田の堪忍袋の緒が切れた。豊田は宣伝部に殴り込みをかけた。宣伝部長に大手代理店とGMSでコンペをやるよう要求したのだ。
かくして、1週間後に企画案提出となったが、「豊田さんにそこまでやらせてコンペに負けるわけにはいけない、これは戦争だ!」と、友山はGMSの総力をあげて企画書づくりに取り組んだ。
その企画制作を担当したのがデザイナーの伊藤誠(現在のTC常務取締役)と、取引先の印刷会社のスタッフ、高橋和巳(現在のTCコネクティッド本部副本部長)だった。伊藤ももとはと言えばその印刷会社の社員だったが、GAZOOのイメージキャラクターをデザインしたことがきっかけで、友山から引き抜かれてGMSの創業メンバーの1人になっていた。ちなみに、その1年後、このプロジェクトが終わると、今度は伊藤が高橋を引き抜いた。
友山、伊藤、高橋は、1週間ほぼ徹夜で企画書を仕上げた。そして1週間後、大手代理店とGMSの一騎打ちは、見事、GMSが勝利した。誰が見てもその差は歴然だった。GMSは、トヨタパビリオン・ドットコムの制作・運用を一括して請け負うことになった。

インパク内閣総理大臣賞を受賞

2000年の大晦日の20時からインパクのオープニングイベントとして、お台場のメガウエブでケツメイシなどのアーティストが出演したカウントダウンライブが開催された。そして、午前0時にインパクがスタート。GMSでは、世間の正月気分をよそに、友山と伊藤は開発メンバーとともに最後まで調整作業に没頭していた。そして2001年元旦、トヨタパビリオン・ドットコムがオープンした。

オープニングイベントの模様
オープニングイベントの模様

メガウェブで開催されたオープニングイベント

トヨタパビリオン・ドットコムは「クルマ、夢と出逢いを語るもの」をテーマに、「名車列伝」「クルマと人の面白歴史館」「バーチャル・ショールーム」「MUSIC NATION」「プロジェクトG」「世界合同フォーラム」「ゲームランド」「i-グランプリ」の8つのコンテンツで構成されていた。その特徴は、ただ単に「見る(訪れる)」だけでなく、「楽しむ・見つける・考える・体験する」というアクティブで、参加できる要素がふんだんに盛り込まれていたことである。
例えば「MUSIC NATION」は、インディーズアーティストが自らの楽曲をパビリオン内に設けられたブロックで紹介し、リスナーが投票したりコメントする。投票数の多かったアーティストから、最優秀曲をCMに採用すると言うもので、400組以上の参画がありおおいに盛り上がった。
最終的にトヨタパビリオン・ドットコムは年間アクセス数ナンバーワンを獲得し、内閣総理大臣賞を受賞。GMSは面目躍如を果たした。この受賞はGMSにとってとても嬉しいことだった。
「20代そこそこの我々に数億円ものプロジェクトを任された。これで失敗したらどうしようと気が休まらなかった。ただ、この仕事を通じて、コンテンツ業界に人脈も広がったし、チームメイキング、ファシリテーション、お金の使い方などいろいろなことを勉強できた。カットオーバーを終えて見た、初日の出は、今も忘れられない」。と伊藤は振り返る。その経験と人脈はその後、GMSの貴重な財産となり、いまも活かされている。
また、そんな彼らを陰でバックアップしていたのが当時、ジャパン・デジタル・コンテンツ社長だった藤井雅俊(故人)である。2000年夏のGAZOOドットコム初のTVCMにまだインディーズ・グループだったケツメイシを紹介したことがきっかけで知り合い、MUSIC NATIONの企画・運営で強力にサポート。藤井はその数年後にGMSに入社し、e-Towerの音楽ダウンロードなどのコンテンツ業界のパイプ役として活躍した。

トヨタパビリオンTop画面
トヨタパビリオン・ドットコムのトップページ

うちの犬と同じ匂いがする・・

GMSの創業期は良くも悪くもe-Towerに振り回された。この事業ではいままで紹介した他にも、いくつか思い出深いエピソードが残っている。
ある時、前にも紹介したe-Towerのプリンタートラブルにより、格安国際電話サービスのバーコードが利用できなかったので、「フィリピンに国際電話ができなくてダンサーを日本に呼ぶことができず、ショーが開催できなかった。その損害を賠償しろ」、というクレームが入った。これはどう考えても言いがかりである。このクレーム主と岐阜のロイヤルホストで面談したサービス技術部長の木稲哲郎(現在のTC常務取締役)は、そのただ者でない風貌と剣幕にびびりまくった。結果的に相手も矛を収めてくれたが、木稲はB to Cビジネスの恐ろしさを痛感した。
また、ある日、e-Towerで大規模な通信トラブルが発生。端末と運用センターでおこなう通信トランザクションが3回に1回くらいの割合で通信エラーになった。これにより、全国のF社とS社の店舗にある約7000台、すべての端末が使えなくなった。
原因は不明。当時、運用を担当していた木稲たちのチームはJRセントラルタワーズ42階にあった窓のない開発部屋に4日間、ずっと篭りきりになり、家にも帰らず不眠不休で復旧に当たった。
全員で手分けして、ログのチェックを何度も繰り返したが原因はまったくわからなかった。e-Towerからセンターまでの下りの通信(上りの配信は衛星だったが、端末からのトランザクションが返ってくる下りの通信は専用線を使用していた)を担当していた会社に何度も問い合わせをしたが、向こうは知らぬ存ぜぬ。「そちらのシステムの障害でしょう」の一点張り。思い当たることはすべて検証し尽くした木稲たちは途方に暮れた。「これでもうGMSは終わりだ・・」。木稲は、社会インフラを預かる重責を背負い、そのプレッシャーと戦い、恐怖感で手が震える思いがした。
そんなメンバーの慰労と激励に部屋を訪れた友山。ドアを開けて、入室するなりムッとするような熱気と淀んだ空気に驚く。そして異臭を放つ木稲たちに対して開口一番に発した言葉が「うちの犬と同じ匂いがする」だった。友山はすぐに秘書に指示して、隣接するホテルに部屋を確保し、全員にシャワーを浴びるよう命令した。そのおかげで、木稲たちは、心身ともにリフレッシュできた。
その効果か(?)、通信障害は翌日、何もなかったように復旧した。「あの障害はいったい何だったのだ」。木稲たちはやるせない気持ちでいっぱいだったが、何よりも通信が復旧したことに安堵した。
「こういう事業をやっていればトラブルは付きもの。当時は、いかに障害を楽しむか、そういう雰囲気づくりも大事だった」と友山は振り返る。うちの犬と同じ匂いがする、というのも、木稲ら開発メンバーを家族のように思う、友山の最大の愛情表現だったのだろう。

こうしたさまざまな出来事があり、貴重な経験も積み、鍛えられたe-Towerのビジネスであったが、2007年3月末の契約終了をもって、GMSはこの事業から撤退した。理由はこの時、すでにG-BOOKのサービスが立ち上がっており、クルマの中に「お客様との接点」が作られていたからである。同時にインターネットも普及し、e-Towerに頼らなくてもさまざまな方法でトヨタのネットワークにアクセスする手段は広がっていた。このままe-Towerの事業を続けていく意味がなくなっていたのだ。
かくしてGMSにとっては思い出深いe-Tower事業は終了した。

KEY PERSON Interview

すべてが未体験。
だから、まずやってみる。
やりながら、現地現物で考える

常務取締役 木稲哲郎

木稲さん写真

私の前職はトヨタの基幹システムを担当するコーポレートIT部。GMSでの役職はサービス技術部長でした。会社の創業期ですから、サービス技術部長といっても、やる仕事は営業。友山さんと一緒に、コンビニ各社を回って、資料片手にシステムの仕様を説明し、先方の要望をお聞きしてそれをシステムに反映し、すり合わせをしていく。同じコンビニという業態でも、各社の考え方や業務の進め方はバラバラです。それゆえ、e-Towerの仕様や運用を詰めていくプロセスはとても苦労しました。
 前職ではコーポレートIT部主担当員(課長)として応接室のソファーにデーンと腰掛けてシステム会社から提案を聞き、こちらの意見や要望を伝えていく役割でしたが、今度は一転、営業として逆の立場に。ソファーには浅く腰掛け、前かがみの姿勢になって、口角泡を飛ばして必死にプレゼンをおこなう。相手の顔色を伺い、発言はもとより、一挙手一投足に目を配る。こんな経験、トヨタ時代にはありません。

ベンチャーの醍醐味を経験

何度もコンビニ本部に足を運び、仕様変更をして提案を出し直す。だからF社から試験運用とはいえ導入が決まった時は心の底から嬉しかったですね。まさに、これこそベンチャー企業の醍醐味だとジーンときました。
そして、ギリギリのスケジュールの中、なんとか期限通りにF社へ試験導入を果たしたものの、今度は端末トラブルが散発。その度に、店舗を訪問し、事情を説明し、頭を下げて謝罪する。一時期は謝るのが仕事みたいになっていました。社外で謝罪やクレーム対応するなんてことは前職では一切、ありません。これまた初体験。当時は「トヨタの課長で一番謝罪している」自負がありました(笑)。
側から見ると泥臭く、ストレスが高く見える謝罪行脚も実際やってみると意外と悪くないものです。全国各地を訪れ、いままで接したことのないような人たちと会い、多種多様なクレームに対応する。そこには新しい発見があり、クレームにはビジネスのヒントが隠れていたりします。
未経験のことでも、まずはやってみる。そして、やりながら現場で考え、改善していく。そんなチャレンジ精神、現地現物主義、さらには一致団結して困難を克服した泥臭い経験値が当時のGMSの強みであり、今後のトヨタコネクティッドにもずっと継承していきたいと思います。
当時を知る友人は私たちのそんな奮闘ぶりを「戦場に駆り出された農民兵みたいでしたね」といいます。確かに、満足な武器も武具も持たされず、未知・未体験の戦場に突進していっていましたから、外の人にはそう見えていたかもしれません。

モチベーションを自家発電する

しかし、私たちはただの農民兵ではなかった。一人ひとりがシステム開発や情報通信、システム営業、端末サポートのプロでした。そんなバックボーンを持った人間が集まり、自分の専門領域の壁を超えて協力し合い、チャレンジして、共通の目的を目指し、やり遂げる。そういう意味では週刊少年キング連載の「アパッチ野球軍」みたいな強烈な個性と特技を持った猛者が集まった愚連隊のようなチームでした。昭和の漫画なので若い人にはわからないかもしれませんね。興味がある人は検索してみてください。
こうしたプロとしてのプライドと気概が泥臭い仕事を厭わず突き進んでいけた私たちのモチベーションの源泉でした。そして、モチベーションとは、そもそも誰かに与えられるのもではなく、自分で発電するものだと思っていました。
みんなの汗と涙といろいろな想いの詰まったe-Towerですが、2007年3月の契約満了をもって事業を撤退しました。しかし、この時は事業を継続できない悔しさや「もう、謝らなくてもいいんだ」という安堵感もありましたが、何よりも、自分たちはやり遂げた・やり切ったという充実感に満ちていました。

発想力・構想力のある組織に変貌すべし

豊田章男さんという創業者の旗印のもと、将軍としてそれを支える友山さんの類まれな発想力と強烈なリーダーシップに牽引され、みんなが必死になって、豊田さん、友山さんが描くビジョンを実現するために奮闘する。創業以来、今日まで、トヨタコネクティッドはそうやって成長してきました。
しかし、これからの20年はそうはいきません。豊田さん、友山さんに頼らなくても自らビジョンを描き、新しい事業を生み出し、育てていくことができる組織にしていかなければいけないと思います。

この章の登場人物

  • 藤井 雅俊(ふじい まさとし)故人
    トヨタコネクティッド元エグゼクティブプロデューサー
    トヨタコネクティッドの今を形作る、テレマティクスやデジタルコンテンツ事業など、様々なビジネスの礎を築き上げることを陰で支援しつづけた、TCのフィクサー的人物。元ジャパン・デジタル・コンテンツ社長。日本の著作権の第一人者。トレードマークは、銀髪に黒のジャケット、ブルージーンズ。
    大映の大道具時代に大手出版社の社長に見初められ、その実行力と先見の明で、エンタメ業界のみならず、政界、財界にも深いつながりをもっていた。豊田、友山と同世代で、唯一無二の歯に衣着せぬ物言いが信頼を得て、GAZOOのコンテンツビジネスを照らす水先案内人となった。99年のGAZOOのケツメイシを起用した初代CM制作や、インパクのTOYOTA MUSIC NATIONの企画・運営、e-Towerの音楽ダウンロードサービス立上げ、G-BOOKのカラオケコンテンツ、G-SOUNDなど音楽関係コンテンツの立ち上げや運営に協力。さまざまな企業の上層部との打合せにも、ジーンズで訪問し、ホワイトボード1枚と熱弁で経営層に真っ向勝負を挑み、勝利をもぎ取ってきた。(ちなみに藤井の書いたホワイトボードは誰も読み解くことが出来ないことで有名だった)。クールでスタイリッシュな風貌からは想像できないほどの熱血漢であり、TCの次世代を担う若手マネージャからの信望も厚かった。
  • 伊藤 誠(いとう まこと)
    トヨタコネクティッド常務取締役
    トヨタコネクティッドノースアメリカChief Administrative Officer(兼務)
    ガズーメディアサービス(GMS)初期メンバーである、「オリジナル29」の一人。豊田や友山との付き合いは古く、GAZOOドットコムのロゴマークやメインキャラクターのデザインを務めた。こだわりと実行力が強く、GAZOO立上げ時には自身のキャラクターデザインの承認を取るために、北海道へ出張中の友山の移動スケジュールを把握することなく追いかけ、会食会場に押しかける程の行動力を持つ。(この熱意に負けて友山はGAZOOのキャラクターデザインを渋々承認した。)
    デザイン学科を専攻していたが、幼い頃から打っていた将棋経験によりロジカル思考も兼ね備えている。クリエイティブな想像力が強くアイデアを出すことが得意なため、先に紹介した藤井の師事を受け、様々な人脈を構築しG-BOOKの立上げに貢献した。今でも、伊藤のクリエイティブな発想に共感してくれる社内外・業種を問わない多くの仲間達とのネットワークを持ち、最前線で指揮を執っている。
  • 高橋 和巳(たかはし かずみ)
    トヨタコネクティッド コネクティッド本部副本部長 事業部部長
    GAZOO立ち上げメンバーの1人で、協力会社の場内外注者として、GAZOO事業部に所属し、インターネット版GAZOOの画面デザインやe-Towerの画面デザインに初期から関わっていた。2001年よりGMSの出向社員として務めた後、友山と伊藤に引き抜かれる形で社員となる。 実は、先の伊藤との付き合いは四半世紀を超え、伊藤の実行力を裏で支える関係性が構築されており、よく野球のバッテリーに例えられる。グラフィックデザインを専攻しており、これまでの友山の記者発表や講演のプレゼン資料制作のほとんどを高橋が務めている。 ラガーマンのような風貌から有名なアニメのキャラクターである「ジャイアン」と呼ばれた。(今もメールアドレスに痕跡が残る。)公使ともに好奇心旺盛でプライベートではDJ活動を今も続けており国内外の著名アーティストとのコネクションも持つ。無類の酒好きが功を奏し、そのウィスキー知識の豊富さから、米UBER社の重役からCWO(Chief Whisky Officer)を拝命している。

著者プロフィール

  • 宮崎 秀敏(みやざき ひでとし)
    ネクスト・ワン代表取締役
    1962年、広島生まれ。1997年リクルートを退職後、ひょんな縁で業務改善支援室の活動に帯同。
    98年、同室の活動をまとめた書籍『ネクスト・ワン』(非売品)を上梓。会員誌の制作やコミュニティの運営などでGAZOO、G-BOOK、e-CRB、GAZOO Mura、GAZOO Racingなどの立ち上げに協力しながら取材活動を継続。