トヨタコネクティッド20周年企画連載 虹を架ける仲間達

第3章 e-CRBと海外展開

タイから中国へ。グローバル展開

2004年3月26日。バンコクモーターショーの開催に合わせてe-CRBは稼働を始める。e-TOYOTACLUBは順調に会員を増やしていった。「メーカーのトヨタが開設したサイトらしい」「なんでも世界初らしいよ」。そんな口コミが広がって、会員の登録は予想以上に多かった。これはトヨタやデジタルメディアサービスのメンバーはもちろん、TMTにとっても、嬉しい誤算であった。しかし、タイでのe-CRBの開発はここから佳境を迎える。同時に、オーストラリア、マレーシア、韓国へとe-CRBのグローバル展開がスタートする。SARSで一時中断となっていた中国への導入が始まる。本項ではこうしたグローバル展開の動きを中心に振り返る。

初めての海外事業体DMAPが始動

友山は今後、e-CRBやテレマティクスをグローバルに展開するにあたり、現地でその活動をサポートする目的で海外事業体(現地法人)をSBU(Strategic Business Unit)と呼び、各国に設立しようと考えていた。DMAPは初めて設立されたSBUだった。2004年3月23日に設立されたDMAPの会長には豊田、社長には友山が就任した。そして、早速、ローカル社員の採用がスタートする。まずは会員制WEBサイト「e-TOYOTACLUB」の運用・保守をおこなうためにはWEBデザイナーが必要だった。この募集には4人の応募があった。各人各様に自分のこれまでの実績を「どうだ!」とばかりに自慢げに話す。ただ、その話をどこまで鵜呑みにして良いのか判断に迷った。そのうちの1人だけはPCを持参して自分のデザインしたサイトや自分が作成した提案書を見せてくれた。「なかなか良い」と面接官の小島修は思った。ただ、履いていた靴は薄汚れたスニーカー。そしてヨレヨレのTシャツにジーンズのいでたちだった。面接後に、同席した伊藤誠と相談。「実力はありそうだ。あとは身なりを綺麗にすれば使える」と二人の意見は一致した。
そこで「身なりを綺麗にするなら採用するので明日から来て欲しい」と連絡した。すると彼は「自分は身なりで仕事をしているわけではない。ネクタイをしろというのであれば、お断りする」といってきた。ますます気に入った。再度、伊藤とも相談し「ネクタイはいらない」旨を伝えた。彼は了承し、「いま、新しい靴を買いに来ているところだ」といった。彼が採用第1号のトウだった。
さらにスタッフ部門の採用では応募者の中にJALの元CAがいた。彼女はCAを辞めた後、日本に2年間留学し、語学力を磨いてバンコクに帰ってきていた。元JALのCAだけあって日本的礼儀作法もわきまえている。しかし、希望する給与が高額すぎて採用を見送ることにした。すると翌日、彼女がオフィスに来て、給与は希望の半分でいいから働かせてくれといってきた。自分は日本語については自信があるがITの知識がない。だからここで勉強したいといってきた。実際に彼女はエクセルやワードはもちろん、メールすら使えなかった。それが現在、TCAPで業務部長を務めているオー(Sakanya Limkvamsuk)である。彼女は16年超の勤務の中で現社長の澤村幸一に至る歴代9人の日本人トップを支えてきた。キャリアステップで転職するのが当たり前のタイ社会にあって16年間の勤続は珍しい。彼女に理由を聞くと「当初、DMAPには日系の企業という理由だけで応募しました。本命は日系のメガバンクだったが採用の返事が遅かったので、とりあえずDMAPに入社してパソコンのスキルを磨き、3ヶ月か半年後に転職するつもりでした。ただ、いろいろと仕事を任せてもらえ、勉強になるのでずっとこの会社で働いています」と笑う。彼女いわく、設立当時のタイ人のメンバーはいまでも多く残っているという。オーを含め、タイ人スタッフのみんなが「限りなくカスタマーインへの挑戦」を意識して働いているという。
2004年5月12日にはDMAPの本社ビルの近くのアテネホテルで会社設立パーティーをTMTのトップマネジメントやトヨタ・トンブリの社長などを招いて盛大に開催。日本から豊田と友山、そして6月から副社長(常駐する日本人トップ)として赴任する藤井朗彦も駆けつけた。

DMAP設立パーティの模様
DMAPの設立パーティー。いつも友山はこうしたイベントには徹底的にこだわる。この日も会場に先入りしてスクリーンを使ったスピーチ&プレゼンのリハーサルをやった。通常だとスクリーンに映し出す資料や動画との合わせを何度も繰り返すが、ここタイはマイペンライ(まっいいか!)のお国柄。1回の合わせで現地スタッフから「はい、OK」が出てそそくさと終了。これには流石の友山も苦笑いして、リハーサルを打ち切った。郷に入れば郷に従えである。

タイ人とワンチームで働く

また、タイとのe-CRB展開の現場では、i-CROPの正式版開発以外でもまだまだやらないといけないことは山積していた。設立されたばかりのDMAPであったが助走期間なんて悠長なものは許されなかった。DMAPはいきなり、現場に放り込まれることになった。会社が設立されてすぐに全力疾走を余儀なくされた。
そして、システム開発の現場しかり、販売店での業務改善の現場しかり、いったん改善の現場に入ると日本のトヨタから来たメンバー、デジタルメディアサービスから応援で来ているメンバー、現地DMAPのスタッフといった所属先の垣根は一切なくなる。みんな同じ釜の飯を食べる仲間だ。これまでe-TowerやG-BOOKの開発でも見られた光景がここタイの地でも再現された。
今回はそこにTMTやモデル販売店のトヨタ・トンブリ、そしてDMAPのタイ人の仲間が加わった。人種の違い、一般常識、ビジネス慣習、マネジメント、さらには辛い食事の好みの違い…。さまざまな違いを乗り越えて、「お客様と販売店、メーカーをジャストインタイムにつなぐ」という想いのもと、ワンチームになっていった。
ただ、一つ苦労したのはタイ人スタッフ同士の関係だった。タイにおいてTMTは40年以上の歴史がある大企業。そこで働く人たちは、タイ社会の中では紛れもなく超エリートだった。彼らからすれば、DMAPは設立されたばかりの零細ベンチャー企業。そんなDMAPのスタッフがいうことなんて、まともに聞く耳は持っていなかった。このタイ人スタッフ間の軋轢あつれきは厄介だった。しかし、そういうシーンではDMAPの副社長に就任した藤井が、人柄と持ち前のコミュニケーション能力の高さを存分に発揮した。TMTに出向して日本人コーディネーターに就任した鳥居圭吾と連携して、きめ細かくフォローし、スタッフ間の信頼関係の構築(Employee Relationship Building)を図っていた。

DMAPの朝礼風景の写真
DMAPの朝礼風景。朝礼では藤井が毎朝、英語でスピーチした。タイ赴任中、何が大変だったといって、このスピーチの準備が一番大変だったと藤井は振り返る。写真は開設当初のため、藤井はまだ赴任しておらず、代わりに鳥居がスピーチしている。まだこの時点では日本からきた応援スタッフの方が多いが、ここから徐々にタイ人スタッフの採用が進み、日本人と入れ替わっていった。朝礼のスタイルはこんな感じだった。

グローバル化の動きを加速

こうしたタイの現場の改善が進み、e-CRBが進化していく一方で、着々とe-CRBのグローバル展開の動きが始まっていた。
タイでe-CRBが始動してまだ2週間も経っていない4月7日には、小島や澤田、田村たちがシンガポールで合流した友山とオーストラリアのメルボルンに向かい、Toyota Motor Corporation Australia(TMCA)に対して第1回目のe-CRBのプレゼンテーションをおこなうことになった。しかし、このプレゼン内容にシンガポールで友山から「グローバル展開はこれじゃあダメだ。タイと同じことを横展開するのではない。深化させるんだ」と強烈なダメ出しが入った。メンバーは経由地のシンガポールのホテル、そしてメルボルンに向かう飛行機の機内、さらには現地に到着してからもホテルのビジネスセンターに缶詰になり、必死に修正作業を進めた。そして、なんとかプレゼンに間に合わせた。
その後もマレーシア、韓国などアジア各地で矢継ぎ早にプレゼンをおこなった。そして、準備に少し時間がかかったが、2005年4月にオーストラリアで、2007年4月にマレーシア、2008年2月に韓国で、それぞれe-CRBの展開が始まっている。

TMCAでのe-CRB会議風景の写真
2005年4月。TMCAでのe-CRB会議風景

プロジェクトCが再び動き出す

DMAPの社名決定にあたり、デジタルメディアサービス(Digital Media Service)のタイ現地法人であれば、通常はDigital Media Service(Thailand)LTD.で略称はDMTとすべきところを、友山はあえて、DMAP(Digital Media Asia Pacific)の呼称にこだわった。その背景には「こうしたアジア・パシフィック地域に一気にe-CRBを展開する。DMAPはタイだけの会社ではない」という強い思いがあったからだ。タイでプロジェクトが立ち上がった後には、アジア・パシフィックの各国で同時多発的にe-CRBを展開していく。これは当初からの構想だった。
そして、次の目玉となる展開の舞台は、やはり中国であった。SARSはすでに2003年7月5日にWHOから終息宣言が出ていた。それに伴い、日本から中国への渡航制限も解除されていた。
また、2003年10月にはトヨタは中国の国有企業である第一汽車と合弁で車両販売会社FTMS(FAW Toyota Motor Sales)の設立を発表。これに伴い、前回キックオフをおこなったTMCIのディストリビュータ機能はFTMSに移管されることになり、多くのメンバーがFTMSに移籍した。そして、TMCIはレクサスの輸入販売事業を推進することになった。
こうした動向を探るべく、田村が特命で中国に長期出張して、まるで秘密工作員のように現地での情報収集をおこなっていた。そして、2004年7月から田村はTMCIに出向して、中国でのe-CRB展開の準備を進めた。TMCIは2004年に中国政府から輸入車のライセンスを取得。2005年2月に北京、上海、広州に各2店舗ずつレクサスの販売店をオープンさせた。その中から北京博瑞(ボウルイ)レクサスと広州駿佳(デンカ)レクサスの2店舗がe-CRBのモデル店に選ばれ、2005年5月にキックオフをおこない、8月から中国でe-CRBが展開されることになった。
こうした動きに合わせて、e-CRBのシステム開発リーダーの澤田には、稼働を始めたばかりの正式版(i-CROP ver. 2)に中国で新しく展開するSPM(Sales Process Management/見込み客の商談管理システム)などの新機能を追加し、タイ語、英語、中国語、日本語の辞書を持たせて、展開する国の言語で表示できるグローバル版(i-CROP ver. 3)の開発の指令が下った。
その後も次から次へと、システムに機能が追加されていった。澤田はシステム開発会社への指示や打ち合わせのためにタイと日本を何度も往復した。この期間は深夜便の機内がホテル代わりだった。e-CRBの展開では誰もが一息ついて休む暇すらなかった。全員がひたすら走り続け(しかも常に全力疾走)、ものすごい勢いで展開が進んでいった。

e-CRBの成果を検証する

これまで、e-CRBの立ち上げがいかに大変だったかについて、さまざまなエピソードを交えながら紹介してきた。ここから話の舞台を中国に移す前に、タイでのe-CRB展開でどのような成果が生まれたのかを、世界で初めてe-CRBの導入を経験したトヨタ・トンブリの視点から再度、活動を振り返り検証しておきたい。
「当社はもともと社内の各部門で積極的に改善活動をおこなってきました。しかし、e-CRBは私たちがいままでに経験したことがない組織横断的な改善プロジェクトでした。e-CRBは『Customer First(顧客第一)』をテーマにすべての改善活動を同期させた初めての挑戦でした」とタイ・トンブリのカール(Carl F. Oppenborn)社長は2006年のインタビューで、e-CRBに挑戦した当時の感想を語っている。
同社は2003年6月のキックオフ・ミーティングでe-CRBの導入を決意し、同年10月にコールセンターを設立。全部で13カ所あった販売店舗のCR誘致業務を5人のオペレーターに集約し、i-CROPを使った点検入庫の誘致を開始した。オペレーターの5人はいずれも新規に採用した未経験者の若いタイ人の女の子だった。電話をかけたらお客様に怒られて泣き出してしまうこともあった。それでもめげずに、毎日1人100件の入庫誘致のコールを続けた。トヨタ、デジタルメディアサービス、DMAPのメンバーとトヨタ・トンブリの改善メンバーが一体となって、試行錯誤の中でオペレーターの標準作業を構築。同時に各営業所の予約管理や標準管理を徹底した。カール社長も自ら先頭に立って改善活動を牽引。ウィークリー・ミーティングを招集し、成果の確認、改善活動のフォローをしてきた。
こうした活動の結果、1000km点検の入庫率は活動開始前の68%から91%に、1万km点検では48%から75%に向上した。サービス入庫台数は140%、売上ベースでは170%に向上し、大きな成果を上げることができた。e-CRB展開の本隊が中国に移動した後も、改善チームの一部はタイに残り、DMAPのメンバーとともに改善活動を継続してサポート。さらに改善の範囲を拡大し、受注からお客様に納車するまでのさまざまな業務をジャストインタイムにしていく新車物流改善や中古車物流改善などに挑戦していった。

カール社長の写真
トップ自ら陣頭に立ち、e-CRBを推進したカール社長。
現在はタイのトヨタ・ディーラー協会の会長を務める重鎮の一人になっている。

マルコムにかけた情熱と改善魂

なぜe-CRBがタイでこれほどの成果を上げることができたのか?その答えは明白である。e-CRBは机上で生まれたメソッド(考え方・やり方)ではなく、これまでの日本での経験と実績に裏付けられたものだったからである。成果が出るのは当たり前だった。
1995年から日本でやってきた販売店の業務改善活動。そしてインターネットを使ってGAZOOやe-Tower、G-BOOKでやってきたお客様との接点構築。この2つの取り組みの経験やそこで得たノウハウを整理し、「メーカー・販売店とお客様の間に長期的な信頼関係を構築する」という目的軸で体系化。そして、それらを海外に移植して実現し、同時多発的に各国に展開するためにITを使ったCRMプラットフォームを構築する。友山はシンガポール赴任中にこうしたe-CRBのメソッドをビジネススクールに通いながら、まとめていった。もちろん、e-CRBはビジネススクールの授業の中だけで出来上がったものではない。並行してそれを実践・展開する現場がタイにあった。ビジネススクールとタイの現場。この2極で同時並行的にe-CRBは実践的で成果が上がるメソッドに作り上げられていったのだ。
その完成までのプロセスを、一例を挙げて紹介する。ある日のビジネススクールの授業で友山は「マルコム」という考え方を教わる。それは企業が消費者に対して一方通行で情報を訴求する広告的な販売プロモーションではなく、広報的な要素も交えながら、消費者との双方向の対話を通じて情報を『伝えて』いくというプロモーションだった。これはまさしくGAZOOやG-BOOKでやってきたことそのものだった。「そうか、GAZOOやG-BOOKでは無意識のうちにマルコムをやっていたのか!」と気づいた友山はすぐにバンコクに常駐している伊藤や鶴田に電話して、「e-TOYOTACLUBの開発はマルコムベースでやるんだ!日本のGAZOO以上にマルコムな会員制WEBサイトにするんだ」と興奮しながら指示を出して電話を切った。伊藤や鶴田にしてみれば降って湧いたようなマルコムベースでの開発指示に、「マルコムってなんだ?すぐに調べよう」と大騒ぎになる。そして、友山からの指示の意図を理解し、それに従って開発をやり直す。一事が万事、こんな感じだった。きょう習ったことをベースにその日のうちに企画を立てて、翌日にはタイの現場でそれを応用して実践してみる。そんなふうに、ものすごい勢いでPlan(計画)↓Do(実行)↓Check(評価)↓Action(改善)のPDCAを回していった。
「シンガポールにいた時代は毎日、e-CRBのことばかり考えていました。とにかく没頭していた。寝る時間が惜しかったし、頭の中にいつもe-CRBのことがあって、寝られなかった。とにかく夢中になってがむしゃらに仕事をしていた。あの時期が自分の中では一番ベンチャーだった」と友山は振り返る。そしてタイの常駐メンバーもまた友山のこうした熱い思いに対して、結果を出して応えた。こうしてe-CRBはどんどんブラッシュアップされていった。
一般に海外でのビジネスというのはとても困難である。特に日本で成功したことを海外に移植するというのは極めて難しい。ビジネス慣習や価値観が異なる。日本の常識は海外では通用しない。また日本では簡単に手に入るものが入手困難だったりする。言葉も通じない…。その分、言い訳のネタには事欠かない。しかし、e-CRBのプロジェクトメンバーには、失敗は数え切れないくらいあったが、それを言い訳する者、「そんな納期や予算ではできない!」と指示を拒む者は誰一人いなかった。全員が「限りなくカスタマーインへの挑戦」の理念のもと、「なんとしても、このプロジェクトを成功させたい」という気持ちで一致団結していた。会社設立当時のデジタルメディアサービス(ガズーメディアサービス)の行動指針は「謙虚・感謝・信念」だったが、このe-CRBのプロジェクトを通じて、新しく「情熱」が追加された。

トヨタ・トンブリにお化けが出現した!

さて、タイでの活動の締めくくりに、タイで起きた一番有名な事件を紹介する。それはe-CRBの開発準備中のとある日の深夜に起こった。この日、澤田はi-CROPのシステム改修のため、一人だけトヨタ・トンブリの本社オフィスに残って作業していた。翌朝からオペレーターの業務を新しくするために、この作業は何としてもやり遂げなければいけなかった。気がつくと時計の針は深夜の0時を回っていた。すると突然、ガタガタと物音が聞こえた。そして、その音はだんだん大きくなり、フロア全体からガタガタ、ゴトゴトとものすごい音が響きわたる。実際にモノが揺れているわけではなく、ただ音が響いているだけなのだが、それがずっと続いた。そしてフロアのパソコンが次々と再起動して、繰り返しWindowsのロゴマークが表示された。「ポルターガイスト現象だ!」。澤田は恐ろしくて身動きが取れなかった。こんなとき、どうしたらいいのかなんて予備知識はない。澤田はホテルに帰っていた村田に電話して、この異常現象を伝えた。「村田さんにも聞こえるでしょう?いますごい物音がフロア中に響き渡っているのです」「うん、聞こえるよ」。村田は眠そうだったが、怯える澤田に付き合って、ずっと話し相手になってくれた。物音はなかなか鳴り止まない。パソコンもずっと再起動を続けている。20分ほどの間、澤田はずっと電話口で実況中継を続けた。すると、受話器から「熱っ!」という村田の声。そして村田は「電話機が熱くなって持っていられないから、もう電話を切るわ」と告げて、電話を一方的に切ってしまった。
このとき、村田はバンコクの街中で購入した、めちゃくちゃ小さいサイズのバッタモノの携帯電話を使っていた。サイズがあまりに小さいからか?粗悪品だったためかは定かではないが、長時間の通話でバッテリーが過熱してしまったようだ。この「熱っ」は心霊現象とはまったく関係ない。念のため。
こうして再び、独りっきりになってしまった澤田。物音はまだ鳴り続けている。とにかくひたすら怖かった。そして、午前1時になると、物音はピタッと鳴り止んだ。そしてパソコンも正常に戻った。「一体、あればなんだったのだろう?」。澤田は早くホテルに戻りたかったが、まだ改修作業が終わっていなかったので、ぐっと我慢して改修を続けた。
そして、翌朝、このことを他の仲間にとうとうと説明したが、誰も信じてくれなかった。「どうせ夢でも見たんだろう」「仕事をやりすぎて、幻覚を見た?」「ついに澤田が壊れた?」と真面目に取り合ってくれない。
同じ話を販売店のタイ人スタッフにすると、「澤田さん、昨夜、本社にいたのですか?ダメですよ、昨日はBuddhist Dayです。いつもBuddhist Dayの夜には出るのですよ。お化けが。だから、昨夜は仕事なんてしちゃダメですよ。多分、物音がしている時にフロアの駐車場にいったら女の人が立っていたと思いますよ」と笑いながら注意してくれた。「やっぱり、あれはポルターガイストだったんだ」。澤田は身震いがした。
そして、十数年の月日が経ち、2016年から3年間、澤田は日本人コーディネーターとしてTMTに出向した。その時、TMTで会う人、会う人がみんな「澤田さんって、あの澤田さんですよね。トンブリでお化けに遭遇した…」。久しぶりに再会した人ならともかく、初対面の人からも同じように聞かれた。どうやら、澤田の心霊現象体験はTMT社内で語り草になっていたらしい。知らないうちに澤田はTMTの中でレジェンドになっていた。もちろん、語り継がれてきたのは、お化け話だけではない。澤田をはじめ当時のe-CRB開発メンバーの情熱的な仕事ぶりや仕事の成果も合わせて、タイではレジェンドとしてしっかり語り継がれていた。
次項ではe-CRBの舞台がタイから中国に移る。

この章の登場人物

  • 田村 誠(たむら まこと)
    トヨタ自動車 ITS・コネクティッド統括部 データ事業推進室長
    トヨタの中で情報通信事業の経験が長く2000年にGAZOO事業部(現e-TOYOTA部)に異動し、同年、出向でGMSに入社。e-Towerの展開で謝り侍として活躍。その後、情報通業企画室に帰任するも、再び、e-TOYOTA部に呼び戻され、e-CRBの立ち上げで活躍。DMAPの設立の際、豊田章男をタイに招いておこなった豊田通商タイランド、富士通タイランドとの合弁契約の調印式に立ち会う。契約書に豊田が万年筆でサインする姿を見て「かっこいい!」と思い、以来、それを真似して、仕事では万年筆を愛用している。アイディアマンでもあり、会食や打ち合わせの際、何かいいアイディアが浮かぶとすぐにノートと万年筆を取り出して、図や表を書いて説明を始める癖がある。ただ、書く文字はお世辞にも綺麗とはいえない。2004年7月から中国のTMCIに出向し、2013年9月までの9年間を中国に駐在。e-CRBの展開や中国版G-BOOKの展開を担った。
  • 澤田 敏之(さわだ としゆき)
    トヨタ自動車 流通情報改善部 出向中
    トヨタ学園を卒業して、技能員として入社後、社内選抜で豊田工業大学に進学。技術員として再入社という異色の経歴を持つ。工場勤務時代に「とにかく元気のあるやつが欲しい」と業務改善支援室に引き抜かれ、藤原の下でマイクロソフトのアクセスの使い方を徹底的に叩き込まれた。芯が強く、かなり頑固な一面もある。納得できないと見た目通り、岩のようになって動かない。e-CRBのシステム開発ではとにかく次から次へと開発案件が山積みになり大変だった。「なぜ、あの時、逃げ出さず頑張れたのか?」の問いに対して「豊田さんが業務改善支援室を作って販売店の改善を始めたときのTeam for CS Creationの志。それを実現したいというのが、僕が頑張れた理由です。e-CRBでは世界中の販売店をTPSで変える!というなら、そのために頑張ろうと思った。単純な性格なので、ただそれだけです。」と語った。
  • Sukanya Limkvamsuk(Aor)
    トヨタコネクティッド・アジアパシフィック 管理部長 MaaS事業部長
    2004年のTCAP立ち上げメンバーで日系航空会社の元キャビンアテンダント。微笑みの国タイの象徴如く、素敵な笑顔で人々を受入れ、ホスピタリティも非常に高い。タイ人はもちろん日本人も含め、TCAP全員の絆を大切と思っており、社内のクリスマスパーティーなどを自ら企画し、強い組織をソフト面で支えている。生来から勉強熱心な性格で、常に新しいことにもチャレンジ。芯が一本通っている為、時には歯に衣を着せぬ発言で、周囲を驚かすことも。全従業員に直接ねぎらいの言葉や励ましをしたり、困りごとがないか常に従業員に気を配る。これまで9名の歴代社長を支えてきたTCAPのお母さん的存在。

著者プロフィール

  • 宮崎 秀敏(みやざき ひでとし)
    ネクスト・ワン代表取締役
    1962年、広島生まれ。1997年リクルートを退職後、ひょんな縁で業務改善支援室の活動に帯同。
    98年、同室の活動をまとめた書籍『ネクスト・ワン』(非売品)を上梓。会員誌の制作やコミュニティの運営などでGAZOO、G-BOOK、e-CRB、GAZOO Mura、GAZOO Racingなどの立ち上げに協力しながら取材活動を継続。